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2019年を振り返って 〜父への追悼〜

2019年が暮れようとしています。皆さまにはどのような年でしたでしょうか?
私は、この年を決して忘れることはできないでしょう。国内外での演奏活動がとても充実した1年でしたが、最愛の父を亡くした年にもなるからです。ここに、友の会ユミットクラブ会報「ユミットプレス」秋号に掲載いたしました、父への追悼文を転載させていただきます。生前、父にご縁をいただき、ご厚情を賜りました皆さまに感謝申し上げます。そして、皆さまにとりまして、2020年がお幸せに満ちた年となりますよう、お祈りしております。

山形由美
2019年12月26日


特別寄稿 ~追悼 父、山形和美を語る〜  文・山形由美

 時代が平成から令和に変わった5月、父山形和美が天に召されました。家族一同に見守られながらの、安らかな旅立ちでした。
 東京から避暑に訪れた那須高原が気に入って、豊かな自然の中でじっくりと研究に励めると移住し、穏やかに過ごしていた父が、肺炎で危ないという突然の知らせ…。それは一昨年の3月、私が、東京の「銀座Sun-mi」でのコンサートに臨んでいるときでした。大きなショックに見舞われた私は、涙をこらえ、気持ちを奮い立たせて演奏に集中しようとしたことを覚えています。幸いなことにそのときは一命を取り止めることができました。
 以来2年余、幾度となく死線をさまよいながらも、そのたびに力強い生命力で奇跡的に蘇った父は、今年の3月に満85歳となり、令和の時代も迎えることができました。毎日欠かさず見舞っていた母、仕事の合間に家族を連れてしばしばトンボ返りをしていた弟…。そして私も数えきれないくらい那須を往復して、父との大切な時間を持つことが出来たことは、なんとありがたいことだったでしょうか。毎日父のために祈り、可能な限りは同行して、私の支えとなってくれた夫にも感謝しています。
 若くして学者となった父は、とにかく勉強家でした。家にいるときはほとんどの時間を、本に溢れた書斎で研究に費やしていましたし、居間で寛ぐときでもつねに本を手にしていました。その集中力は凄まじいもので、ひとつのことに打ち込む人の姿というものを目に焼き付かせてくれました。信じられないほどの集中力と大きなエネルギーで、次から次へと研究を深め、著作を発表していましたが、専門違いの私にはなかなか理解することが出来なかったことが残念です。
 父は、母の存在があったからこそ、あれほど学問に専念することができたのだと思います。もともと器用で、やれば何でもできた父が、学問にのめり込むあまり、それ以外のことはすべて母に任せるようになっていきました。常に母がそばにいることを望んでいたのは、物理的にも心理的にも母を強く必要としたのだと思います。父が大学院生のとき結婚した両親は、60年も一緒にいたことになりますが、その間母は、本当によくサポートをしたと思います。
 仕事人でありながら、父は実に家庭を大切にする人で、子供の頃からよくドライブや旅行に連れて行ってくれました。また父がケンブリッジ大学に赴くタイミングと私が藝大を卒業する時期がぴったりと合って、共に英国生活を送ることが出来たこと、そして英国から帰国する途中、両親とともにフランス、イタリアをじっくり旅行し、様々な文化に触れたことは、私にとって大きな財産となっています。
 父は、私が音楽の世界に生きていることを、尊重してくれていました。家で長時間フルートの練習をするのは、研究に差し支えたかもしれませんが、一度もうるさいと言われたことはありません。演奏会を喜んで聴いてくれていましたし、セルフプロデュースCDを制作するときも、力になってくれました。イタリアの公演にも足を運んでくれ、そのときに長年の親友であるパドアンさんご夫妻とも会うことができたことは、何よりでした。
 この2年、父のことを思うと、どこにいても気が気ではありませんでしたが、なぜか不思議と病状の変化によって私の演奏会に差しさわりがあったことがないのです。亡くなったのも、ヨーロッパツアーと、飛鳥Uのアラスカ・ロシアクルーズの間のことでした。このことからも、本当に父は私を応援してくれているのだと感じています。
 残された家族は寂しいですが、父は学者として、家庭人として、これ以上ないほど真摯に生き切ったと思います。天にいる父に届くよう、今まで以上に心を込めてフルートを吹いていきたいと思います。


★山形和美略歴
昭和9年3月19日山口県生れ。
東京教育大学大学院文学研究科修士課程修了後、昭和34年西南学院大学に奉職して以降、50年間教職を務める。専修大学、フェリス女学院大学を経て、45歳で筑波大学教授。平成9年同大学を定年退職後も、清泉女子大学、恵泉女学園大学、鶴見大学、聖学院大学大学院で、教授職として後進の指導に当たる。
一方、文学研究者としては、日本英文学会(理事等)他、日本キリスト教文学会、日本C・S・ルイス協会、日本グレアム・グリーン協会で会長を歴任し、〈キリスト教と文学〉の関係を研究する第一人者として活動。研究対象は英米文学にとどまらず、日本文学、ポストコロニアルへと広がり、縦横に論評を重ね膨大な論文、著書を記す。
翻訳も数多く手掛け、第25回日本翻訳文化賞受賞。昭和60年、英国ケンブリッジ大学客員研究員。オリンピア学士院(イタリア、ヴィチェンツァ)会員。
研究の集大成である『山形和美全集』(全14巻)は日本キリスト教文学会特別賞を受賞。平成25年、瑞宝中綬章受勲。令和元年5月21日、肺炎のため栃木県那須塩原市にて逝去(85歳)。
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