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オリンピックと共に過ごした40年 〜元チーフコンパニオンが語る、オリンピック秘話〜



対談 山形由美 × 原田知津子


皆様
ロンドンオリンピックも終盤戦を迎えました。
連日の観戦で、更に暑い、熱い夏をお過ごしのことと思います。
全力を尽くす選手の皆さんの姿には、本当に胸を打たれますね!

ところで、歴史あるオリンピックを、なんと40年にわたり支え続けた稀有な日本女性がいらっしゃることを、ご存知でしょうか?
その方とは、今年90歳を迎える原田知津子さんです。
原田さんは、私がかつて通っていた、家事とおもてなしのサロンを主宰なさる師ですが、カナダからの帰国子女として育ち、結婚後は英文速記者としてもキャリアを積まれたスーパーレディです。

「すぐする、すぐすむ」の理念で数々の活動をこなされてきた原田さんの教えは、私に大きな影響を与えてくれました。(そのことについては以前、このフロムユミでもご紹介したことがありますので、よろしければお読みくださいね)。
http://www.yumi-yamagata.com/yumi/yumi061.html

サロンでのコースが終わってからもお目にかかっては、様々なお話を楽しくお伺いしてきたのですが、驚いたのは、完璧な主婦業をこなされながら、東京大会から長野までオリンピックのスタッフとして活動されてきたことでした。ロンドン大会開催直前には改めて、豊富な経験に基づいた貴重なお話をじっくりと伺うことができました。

その模様は、山形由美友の会会報「ユミットプレス」誌上で会員の皆様にお読みいただいたのですが、是非このサイトをご覧の皆様にも広くお伝えしたいと思い、転載させていただきました。
オリンピックの見方が更に奥深くなること、請け合いです。
どうぞお楽しみください!
2012年8月9日
山形由美


山形
先生は、本当に何人分もの色濃い人生を刻んでこられたと言っても間違いないと思います。その上先生はもうひとつの道を歩まれてきました。オリンピック活動を長きにわたり支え続けられたのですよね。この夏にはロンドンでオリンピックが開かれるということもありますので、そのお話をじっくりとお伺いしたいと思います。そもそも、お若いときからオリンピックにはご興味がおありだったのですか?

原田
そうなのです。東洋英和の女学生だった頃、来る1940年に東京でオリンピックが開かれることが決定したということを聞いて、何か自分もお役に立ちたいと思いました。しかしそれが戦争で中止となり、本当に残念でした。それから年を経た1958年の春、当時のJOC(日本オリンピック委員会)会長でIOC(国際オリンピック委員会)委員の東龍太郎先生に目にかかった折、6年後の夏季オリンピックの開催を東京で、という事前招致運動をするにあたり、私に手伝ってほしいという依頼を受けました。

山形
先生に打診されたのは、いったいどのような役割だったのですか?

原田
前回のメルボルン五輪に出席された東先生は、各国からのIOC メンバーや賓客を細やかにお世話していた女性スタッフの存在に非常によい印象をお持ちになったそうなのです。ついては1958年の秋に日本で初めて開催されることになっていたアジア大会の折に開かれるIOC 総会で、是非同じような日本女性の方たちに加わってもらいたいと思っている。そこで原田さんに語学の堪能な女性を集めてもらえないものだろうか、というご相談でした。私は喜んで依頼を受け入れました。当時は帰国子女の数が少なく大変でしたが、英語やフランス語、スペイン語などができる女性たちを探し出し、やっとのことで20名のグループができたのです。そして期間中、彼女たちはボランティアで、各国からのIOC委員や特別なゲスト、ご夫人方の通訳やご案内、お供などに務めました。

山形
それは素晴らしいですね!

原田
アジア大会も大成功、IOC総会も無事終わり、甲斐あって翌年、1964年の開催地として東京が選ばれたのです。

山形
それが先生とオリンピックを結びつけるきっかけとなったのですね!



東京オリンピックの華「コンパニオン」を選出、率いることに

原田
待ちに待った東京オリンピックが近づき、新たにそうした語学の堪能な女性たちを34名選び出しました。東先生の発案で「コンパニオン」と名付けられた女性たちを取り上げるマスコミの騒ぎは大変なものでしたよ。中には池田勇人首相や元宮様の竹田恒徳氏のお嬢さん方などがいらっしゃったことも関心を集めたのでしょうね。のちに巨人軍の長島茂雄夫人となられた西村亜希子さんもいらっしゃいました。

各コンパニオンがそれぞれIOC委員や賓客の担当に配属されましたが、私はチーフ・コンパニオンとして指揮を執り、更にブランデージ会長の担当も受け持ちました。


山形
素敵なユニフォームに身を包んだ女性たちは大会の華やかな存在だったと思いますが、かなりな重責を負ったのですね。

原田
そうですね。期間中は委員の公的なお仕事からプライベートな部分まで細やかにお世話をし、同伴の夫人方には観光やお買い物のお手伝いもしました。通訳だけではなく様々な役目がありますから、寝る間もなくなり何キロも体重が減ってしまうほどの重労働でした。

山形
東京五輪の大成功には、そのような先生を始めとする、コンパニオンの皆さんの努力があったのですね。そして先生はそれからも、オリンピック活動を支え続けられた…。

オリンピックがもたらした様々な縁

原田
数えてみますと40年。チーフ・コンパニオン、札幌や長野の招致運動に加わり、IOC事務局の職員などの役割を得て、計10回のオリンピック競技大会、20数回のIOC総会と理事会に参加しました。ブランデージ会長、キラニン会長、サマランチ会長の歴任時代を3回過ごしたことになります。

山形
ブランデージ会長というお名前は覚えていますが、どのような方だったのですか?

原田
大変尊敬する方です。まさにアマチュアリズムを貫いた、大変な紳士でした。アメリカで建設業での大成功を収めた大富豪でありながら、実に質素な方でした。日本びいきで、東洋美術の世界的コレクターでもある教養人。東京大会から長いお付き合いになりましたが、素晴らしい方だったと今も懐かしく思い出します。そして時代の変遷と共に、大会の理念がアマチュアリズムから、放送、広告などを生かした開催方法へと変わり、ボランティア参加を活用し経費を縮小する方法などが発達してきたことも、つぶさに見てきました。東京大会のマラソンで円谷選手が銅メダルを取ったときの興奮、長野大会でのスキージャンプ団体の優勝など、様々な選手や競技の印象も鮮やかに残っています。そして五輪がなければ知り合うことのなかった方々との思い出も数多くあります。たとえば、アメリカのスコア・バレー冬季大会では、開会式の演出をされたウォルト・ディズニーさんとすっかりお近づきになりました。私を愛称で呼び「チイが案内してくれるなら日本に行く」と約束したことを果たせないまま他界されたことは残念です。

山形
モナコ公国のアルベール大公とも、今なお交流がおありだそうですね。

原田
ご自身がボブスレーのオリンピック選手として活躍された大公は、皇太子時代からIOC委員を務めておいででした。1993年のモンテカルロIOC総会に殿下からご招待を受けモナコにまいりましたときには、宮殿内のプライベートな書斎にまでご案内いただきましたが、お母様である故グレース王妃の書籍や白い像が飾ってあり、グレース・ケリーファンの私は興味深く拝見しました。今でもクリスマスカードを欠かさず送ってくださいます。

山形
その他、イランのパーレビ殿下にお付きになったこともあるそうですが、そうした高貴な方々とも、先生は実に身近に、そして自然に接してこられたのですね。

原田
パーレビ殿下は当時の国王の弟君で、IOC委員でいらっしゃいました。大の飛行機好きでしたが、あるとき操縦したいとおっしゃるので、私は方々を調べて小型機を手配しました。飛行場にお連れすると殿下は私にも乗りなさいとおっしゃるのです。服装が適さないので固辞しましたが聞き入れてくださいません。仕方なく同乗しましたら、富士山の上まで飛びました。寒さに震えながら火口を真上から眺めた富士山は忘れられません。

山形
オリンピックは、スポーツを通じ世界中の国々や人々が交流することを目的としていますが、先生はまさにそれを独自のスタンスで続けてこられたということになりますね。大会を運営するIOCメンバーの激務をサポートするということは、非常に大切な任務だと思います。私たちが競技を見ているだけでは分からない奥の世界を、先生を通して垣間見させていただいているような気持ちになります。

原田
オリンピックを通じて、本当にたくさんの経験と、交流を持つことができました。おかげさまで今でも世界中にお友達がいて訪ねることができるのは喜びです。

山形
再び招致活動に参加され、34人のアシスタント(コンパニオンから改称)を率いられた長野大会が先生にとっての最後のオリンピックとなりましたが、閉会式ではどんなお気持ちでしたか?

原田
それは悲しかったですね…。6つの役割で関わってきた40年間の活動が終わったのですから。

五輪功労賞の栄誉を受ける

山形
しかしその後、先生の長年の貢献に対し、「オリンピック・オーダー(五輪功労賞)の授与が決定されたことは、本当に名誉なことでしたね。2000年にスイス、ローザンヌのIOC本部でサマランチ会長から授与された後、東京で開かれた祝賀パーティには私も出席させていただきました。過去受けられた日本人女性は、引退後水泳の後進を育てたことが評価された前畑秀子さん以外はいないとお聞きしましたが。

原田
ええ。それに私のようなボランティアでの活動に対する授与というのは初めてだったそうです。そのときには、実弟の平井俊一も同時受賞しました。弟はブランデージ会長の側近や長野オリンピックの副村長などとして長く活動したことが評価されたのですが、姉弟同時というのも初めてだったそうで大きなニュースになりました。

山形
なんと素晴らしいことでしょう!先生は日本女性の誇りですし、真のスーパーレディでいらっしゃいます。ご家庭を大切にされ、手に職を持ち、海外駐在もされる中、これほどの活動を続けられたことは驚嘆に値します。同時にいくつもの役割を完璧にこなされてきた、その秘密はいったい?

原田
そうですね…。決めたことはやる、ということでしょうか。今も毎朝ウォーキングをしていますが、やると決めたからには続けています。1日でも休むとダメなのです。3日坊主になるくらいならやらない方がいいのです。言ってみればそういったことの積み重ねでしょうか。

山形
耳の痛いお話です。ひとつひとつ積み重ねていくことが、大きな功績に繋がっていくのですね。「すぐする、すぐすむ」。さらに「決めたことは絶対にやり続ける」ということが豊かな人生の秘訣なのだとわかりました。常に先生の教えを心に留めて生きていきたいと思います。さて、お話は尽きませんが、近々ご著書を出版されますね。おめでとうございます。回顧録をはるかに超えた、知られざるオリンピック史ともいえる貴重なご本ですので、是非ともたくさんの方にお読みいただきたいと思いまして、私も帯に推薦コメントを寄せさせていただきました。発行が楽しみでなりません。

原田
ずいぶん前から書き溜めていたことを、やっとまとめることができ、うれしく思っています。

山形
ロンドンオリンピックの開催直前の、非常にタイムリーなご出版ですし、先生にとっては90歳になられる年の大きな記念になりますね。ますますお元気に、そしていつまでも私たち後輩によき道をお示しください。長時間お付き合いいただきまして、ありがとうございました。

(山形由美友の会会報「ユミットプレス 2012年夏号より転載」


原田知津子さん(グッドハウスキーパー)
1922年12月2日生まれの89歳。東京・麹町生まれ。幼少期をカナダ・トロントで過ごし、11歳で帰国。東洋英和女学院、聖心女子大学英文科で学ぶ。英文速記者として長年外務省で働くかたわら、元男爵原田敬策氏の妻として2男を育てる。東京オリンピックでチーフ・コンパニオンを務めて以来、40年間オリンピック運動に貢献。その功績によりIOC(国際オリンピック委員会)より2000年に五輪功労賞を授与される。1981年より自宅にて「快速家事とおもてなし」のクラスを開き、グッドハウスキーピング法を3000人に教える。山形由美も生徒のひとり。7月20日にオリンピック活動を綴った著書「希望の祭典・オリンピック」 大会の「華」が見た40年 が幻冬舎より出版された。
 
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